山本勘助(6)
左の浮世絵は、歌川国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』と題する大判錦絵です。絵柄の解説は次回以降に譲るとして、今回は、作品に付されている書き入れに注目してみます。
なかでも、最後の締め部分「或人伝…其頃名高き竹中穴山佐奈田など此山本勘助が門子とぞ聞えし」という部分を考えてみましょう。
竹中(半兵衛)は、豊臣秀吉が織田信長の家臣時代の軍師で、秀吉の出世を支えた名軍師です。つぎに、穴山(梅雪)は、武田二十四将の一人で、勘助亡きあと、その外交能力を生かし、武田勝頼を補佐した武田家の重鎮です。最後の佐奈田は、父昌幸、その子信繁のいずれか定かではありませんが、昌幸は関ヶ原の合戦直前、秀忠の徳川軍本体に勝利した強者ですし、信繁は幸村としての方が有名で、大阪夏冬の陣で徳川旗本勢を散々に蹴散らした知将です。
これら三人は、いずれも親徳川的軍師ではなく、竹中は豊臣側人物、穴山は武田から徳川に寝返ったのですが、それ故、徳川が一目置かなければならない人物、佐奈田は反徳川的人物です。これらの師が山本勘助であるというのですから、江戸庶民にとっての勘助人気は、ただ単に武田の名軍師というだけではなく、徳川に何か一矢を報いたい思いが潜んでいるのではないでしょうか?
この東海道五十三対の作品は、天保の改革の後に版行されていますが、天保の改革以後の国芳作品の特徴は、改革あるいは幕政を揶揄することによって、大いに人気を得ているということです。山本勘助の活躍は、川中島合戦の浮世絵の一つの核をなしています。でも、その本当の理由は、戦国の英雄的軍師という単純なところにあるのではなく、改革や幕政への風刺を仮託された人物として扱われていると読み解いてみました。
とすると、山本勘助の活躍に共感する江戸庶民は、これら浮世絵の背後に具体的には何をみているのでしょうか?ヒントは、天保の改革後、弘化初年頃より国芳が使用し始める、そしてこの浮世絵にも押されている、桐のマーク「芳桐」です。つまり、五三の桐・豊臣、太閤記です。この点については、また、機会を改めて…。
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コメント
またまたお邪魔します。
記事とは関係ありませんが
地震が気になりコメントします。
すごく心配ですが、ただ思うだけで
声をかける事が出来ないので余計に気になります。
怪我等何も無ければいいのですが…大丈夫でしょうか?
被害は少ないのでしょうか?
これをいつ見かけるか解りませんが…
気をつけて下さいね☆
投稿: ももか。 | 2007年7月16日 (月) 14時31分
飯綱町で田舎暮らして17年ほど経ちますが、今回の地震は最大規模のものでした。事務所の引き出しは開いてしまいました。しかし、規模の割に被害はありませんでした。(使っていない、古井戸の石垣の石が一つ落ちたくらいです。)
町の中央を流れる川を挟んで、新潟寄りは砂地であるので、震度6強で被害がありました。これに対して、反対側は飯綱山の火山性の岩盤に守られて震度5強ということで、大事にいたりませんでした。上杉謙信も強く信仰した、飯縄大明神のご加護かもしれません。
多くの方に心配していただいたことに、感謝いたします。
投稿: カワちゃん | 2007年7月19日 (木) 16時12分