山本勘助(7)
前回紹介した国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』のアイデアは、すでに寛政九年(1797)、秋里籬島『東海道名所図会』のなかに見ることができます。そこでは、「三州牛久保山本勘助故居」(さんしゅううしのくぼやまもとかんすけのこきょ)と題する図絵があり、隻眼の勘助が雪降り積もる山中の芳蘆にて書を読んでおり、武田晴信(信玄)が軍師として迎えるため、家の門に在来している様が描かれています。「三顧の礼」を思い起こす図柄です。
ただし、晴信と勘助の出会いを「三顧の礼」に準えるのは、『東海道名所図会』の考案かというと決してそうではなく、享保六年(1721)初演、近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦・二段目』にあり、そのなかでは、勘助の老母越路を説いて主従の約束をする展開となっています。また、明和三年(1766)には、信州川中島合戦を先行作とする『本朝廿四孝』が初演されているので、雪中での筍掘りも周知のこととなっています。
こうして見ると、国芳の当該絵柄は、先行する人形浄瑠璃や歌舞伎狂言を受けて描かれ、すでに『東海道名所図会』などによって、ある程度完成されているイメージに基づいていることがよくわかります。このことは重要な観点で、国芳が歴史的事実を直接武者絵として仕立ててはいないということです。
三代豊国などの作品の場合、歌舞伎狂言や戯作などが下敷きにされていないか探りますが、国芳の武者絵や広重の風景などについては、この観点をわりと見落としがちです。川中島合戦の浮世絵など、歴史的事実と異なって描かれていることしばしばですが、これは当時庶民に流布していた歌舞伎、講釈などのドラマ(フィクション)を描いているということを思い起こせば、十分に納得できる事態なのです。浮世絵は事実ではなく、真実を伝えるものなのです。
江戸庶民周知の『本朝廿四孝』の「筍掘り」の場面は、後の山本勘助と直江山城守が登場します。したがって、役者絵としてではなく武者絵として制作する場合でも、川中島合戦に軍師山本勘助を登場させた際、実際に居たかどうか不明でも、均衡するように、知将直江山城守も描かれます。描かなければ、かえって批判されてしまうかもしれませんね。
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