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2007年7月28日 (土)

山本勘助(7)

 前回紹介した国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』のアイデアは、すでに寛政九年(1797)、秋里籬島『東海道名所図会』のなかに見ることができます。そこでは、「三州牛久保山本勘助故居」(さんしゅううしのくぼやまもとかんすけのこきょ)と題する図絵があり、隻眼の勘助が雪降り積もる山中の芳蘆にて書を読んでおり、武田晴信(信玄)が軍師として迎えるため、家の門に在来している様が描かれています。「三顧の礼」を思い起こす図柄です。

 ただし、晴信と勘助の出会いを「三顧の礼」に準えるのは、『東海道名所図会』の考案かというと決してそうではなく、享保六年(1721)初演、近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦・二段目』にあり、そのなかでは、勘助の老母越路を説いて主従の約束をする展開となっています。また、明和三年(1766)には、信州川中島合戦を先行作とする『本朝廿四孝』が初演されているので、雪中での筍掘りも周知のこととなっています。

 こうして見ると、国芳の当該絵柄は、先行する人形浄瑠璃や歌舞伎狂言を受けて描かれ、すでに『東海道名所図会』などによって、ある程度完成されているイメージに基づいていることがよくわかります。このことは重要な観点で、国芳が歴史的事実を直接武者絵として仕立ててはいないということです。

 三代豊国などの作品の場合、歌舞伎狂言や戯作などが下敷きにされていないか探りますが、国芳の武者絵や広重の風景などについては、この観点をわりと見落としがちです。川中島合戦の浮世絵など、歴史的事実と異なって描かれていることしばしばですが、これは当時庶民に流布していた歌舞伎、講釈などのドラマ(フィクション)を描いているということを思い起こせば、十分に納得できる事態なのです。浮世絵は事実ではなく、真実を伝えるものなのです。

 江戸庶民周知の『本朝廿四孝』の「筍掘り」の場面は、後の山本勘助と直江山城守が登場します。したがって、役者絵としてではなく武者絵として制作する場合でも、川中島合戦に軍師山本勘助を登場させた際、実際に居たかどうか不明でも、均衡するように、知将直江山城守も描かれます。描かなければ、かえって批判されてしまうかもしれませんね。

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2007年7月 6日 (金)

山本勘助(6)

53tsui1 左の浮世絵は、歌川国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』と題する大判錦絵です。絵柄の解説は次回以降に譲るとして、今回は、作品に付されている書き入れに注目してみます。

 なかでも、最後の締め部分「或人伝…其頃名高き竹中穴山佐奈田など此山本勘助が門子とぞ聞えし」という部分を考えてみましょう。

 竹中(半兵衛)は、豊臣秀吉が織田信長の家臣時代の軍師で、秀吉の出世を支えた名軍師です。つぎに、穴山(梅雪)は、武田二十四将の一人で、勘助亡きあと、その外交能力を生かし、武田勝頼を補佐した武田家の重鎮です。最後の佐奈田は、父昌幸、その子信繁のいずれか定かではありませんが、昌幸は関ヶ原の合戦直前、秀忠の徳川軍本体に勝利した強者ですし、信繁は幸村としての方が有名で、大阪夏冬の陣で徳川旗本勢を散々に蹴散らした知将です。

 これら三人は、いずれも親徳川的軍師ではなく、竹中は豊臣側人物、穴山は武田から徳川に寝返ったのですが、それ故、徳川が一目置かなければならない人物、佐奈田は反徳川的人物です。これらの師が山本勘助であるというのですから、江戸庶民にとっての勘助人気は、ただ単に武田の名軍師というだけではなく、徳川に何か一矢を報いたい思いが潜んでいるのではないでしょうか?

 この東海道五十三対の作品は、天保の改革の後に版行されていますが、天保の改革以後の国芳作品の特徴は、改革あるいは幕政を揶揄することによって、大いに人気を得ているということです。山本勘助の活躍は、川中島合戦の浮世絵の一つの核をなしています。でも、その本当の理由は、戦国の英雄的軍師という単純なところにあるのではなく、改革や幕政への風刺を仮託された人物として扱われていると読み解いてみました。

 とすると、山本勘助の活躍に共感する江戸庶民は、これら浮世絵の背後に具体的には何をみているのでしょうか?ヒントは、天保の改革後、弘化初年頃より国芳が使用し始める、そしてこの浮世絵にも押されている、桐のマーク「芳桐」です。つまり、五三の桐・豊臣、太閤記です。この点については、また、機会を改めて…。

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