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山本勘助(3)

Kansuke51 左の浮世絵は、文久元年(1861)十月改め、歌川(三代)豊国の短冊絵シリーズにある作品です。短冊には、「百姓 横蔵 後ニ山本勘助」とあり、「積雪や雀の 眠く藪の中 芝翫(成駒)」とあり、『本朝二十四孝』の「筍掘り」を題材にした、中村芝翫の役者絵であることがわかります。

 『本朝二十四孝』においては、母は横蔵を長尾景勝の身代わりとするつもりで、死装束を与え、因果を含め詰め腹を切らせようとするのですが、横蔵はこれを拒み、右目を抉って人相を変え、身代わりを避けます。隻眼の勘助誕生ということで、江戸庶民納得の筋立てといえましょう。

 山本勘助は、武田二十四将の一人に数えられています。もちろん、伝説の軍師として、武田信玄に対する忠義がたたえられてのことですが、その二十四という数字は中国における孝行者二十四人を採り上げた『二十四孝』の物語からきています。ただし、中国では「孝」が重要な主題になっていますが、日本では「忠」が強調されるため、話の流れは全く異なったものになります。

 したがって、本朝二十四孝の兄・横蔵、あるいはとくに弟・慈悲蔵は、孝行息子のようですが、結局は主君に対する忠義を全うする結末へと進みます。もちろん、そうでなければ、江戸幕府のお膝元、歌舞伎の舞台にはかけられないでしょうけれど。

 なお、上の作品は、横蔵と描かれていない慈悲蔵とが、筍掘りで掘り当てた箱(中身は足利家の白旗)を取り合いしている場面を描いています。これを見た江戸庶民には、歌舞伎舞台の全景が想像できたことはもちろん、具体的な表現を避けた結果、自分流の狂言を他の人に物語るきっかけにもなったのではないでしょうか。

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山本勘助(2)

Kansuke4a  広重の保永堂版・東海道五十三次の各宿場町風景に、関連ある役者を配した浮世絵シリーズとして『役者見立東海道五十三駅』という作品があります。絵師:歌川(三代)豊国、彫師:横川竹次郎、摺師:大海屋久太郎、年代:嘉永五年(1852)となっています。

 その中の「御油」(ごゆ)が「山本勘助」に当てられていますが、これは、勘助が御油(三州牛窪)出身であるという伝説があるからです。そこで、右図のとおり、三桝大五郎が演ずる『本朝二十四孝』(ほんちょうにじゅっしこう)の勘助が描かれる運びとなります。

 この歌舞伎狂言では、「筍掘り」(たけのこほり)の場面が有名で、それは、冬の雪の中、母のため筍掘りをしていたところ、意外にも、足利(源氏)縁の白旗を見つけてしまったという話です。したがって、画中の勘助は、白い旗を肩にかけています。また、この時点では、勘助は隻眼ではありません。後に右目を自分で潰すことになりますが、その点については、『本朝二十四孝』を参照していただければと思います。

 じつは、この歌舞伎は、中国の親孝行物語で、孟宗竹(もうそうだけ)の語源となった「孟宗」の説話が元になっています。そのため、背後の旗差しが竹で描かれているというわけです。ちなみに、勘助の着物の柄には武田菱が染め抜かれていますが、孟宗の筍掘りを勘助の狂言に持ってきたのは、竹と武田(軍師)とを掛けたのでしょうか、それとも、母に対する孝を描きたかった偶然の結果に過ぎないのでしょうか?

 いずれにしろ、宿場の「留女」を描いた広重の風景画がここまで変容するとは、広重自身もたぶん想像していなかったことでしょう。

 

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節分の豆まき(2)

H66  前回に続き、『北斎画譜』を見てみましょう。こちらは追われる鬼の反対側、「福は内」の方です。なんと恵比寿と大黒の二神が鯛をさかなに盃を交わしているようです。

 赤鬼・青鬼が二匹ということに対し、恵比寿・大黒の二神という対比のようですが、漁業と農業の神が鎮座し、まことに目出度い情景です。通常は台所に祀られていた、この二神は、今日は奥座敷に招かれているようです。

 二神の前に垂らされているしめ縄は結界を張っているのですが、このしめ縄について少し触れてみます。なかに、ウラジロといわれるシダ植物が吊されています。なぜウラジロが吊されているのでしょうか?

 ウラジロの一種にカネコシダと呼ばれるシダ植物があるそうで、またウラジロのことをカネクサともいうそうです。いずれにしろ、鉱石のある地によく生えることからの命名といわれています。つまり、結界の中には、鉱山があるということが推測されるのです。こうしてみると、しめ縄はまさに縄張りであったことが理解できます。

 縄張りをし、原石を火で焙り、小金(こがね)を手に入れ、不純物は外に捨てる、という一連の工程が見えてきます。図中手前の炭火は、暖を取るためのものかもしれませんが、鋳物鍛冶には不可欠の材料です。また、同じく、図中背後に大黒の打ちでの小槌が置かれてありますが、これも鉱山あるいは鍛冶現場の道具のように思われます。

 節分の豆まきというのは、実は鬼退治(伝説)の原型をなしているということがよくわかります。

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節分の豆まき(1)

H64  左の部分図は、『北斎画譜』の中に描かれている節分の豆まき風景です。袴裃を着けた人に「鬼は外」と言われ、豆をぶつけられていますが、よく見ると鬼は赤鬼と青鬼に描き分けられています。赤と青の色の対比には、陰陽の対立が表現されているのではと思います。

 さて、よく考えてみれば、たかが豆ごときをぶつけられたからといって、鬼はなぜ退散するのでしょうか?たぶん、初めは別の意味があったことが、風俗化され、あるいは様式化され、意味不明の行事になってしまったのではないでしょうか。

 豆は、生ではなく、炒った大豆を使うのが普通ですが、ここのところが肝要な部分です。つまり、固い金性の、すなわち、金属のような豆を炒るのは、金属を鋳って溶かすことの象徴と考えられるのです。災いや戦いは金性に宿るという考え方からすれば、それを火で溶かしてしまえば原因がなくなるのです。したがって、金属を象徴する固い大豆を炒った段階で、すでに鬼退治は済んでいることになります。

 ただし、もう一歩話を進め、このような行為の背景に、金属鋳造の作業工程があるとすれば、クズ(オニ)を外に捨てれば、内に黄金が溜る、すなわち、「福は内」となるわけです。さらに、上の浮世絵を見るとしめ縄が張ってあります。結界の外に追い払われた鬼は、鉱山開発を巡る利権から排除された人々と見ることもできましょう。

 節分の豆まきは、旧年の災いを払い、新年を迎える行事ですが、先住した山の民の古い習俗がその起源なのかもしれなれませんよ。

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