蛍狩りと名月

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『雪月花之内 秋の月』
絵師:歌川(一猛斎)芳虎
彫師:片田彫長
板元:丸屋鉄次郎
形式:大判3枚続
年代:文久2(1862)年10月

 源氏絵は、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』の挿絵を歌川国貞(三代豊国)が担当したところから、絵自体が人気を博し独立発展した経緯があるので、その読み解きに際しては、原典である紫式部『源氏物語』や柳亭種彦『偐紫田舎源氏』などの名場面と対比することが多いと言えます。しかしながら、同じ源氏絵の形式を採る作品であっても、たとえば、原典紹介、徳川将軍家の生活案内、名所紹介、事件の暗示、その他宣伝広報など、その主目的をいくつかの類型に分けることができます。

 本作品『雪月花之内 秋の月』は、秋の名月を題材にしているにもかかわらず、華麗に描かれているのは、夏の蛍狩りの場面です。この季節のずれをどう理解するかが問題です。『江戸名所図会4』(ちくま学芸文庫p146、p147)に「落合土橋」の紹介があって、「この地は蛍に名あり。形おほいにして光も他に勝れたり。山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉のごとくまた星のごとくに乱れ飛んで、光景もつとも奇とす。夏月夕涼多し」とあり、同図会に掲載される図版「落合土橋」には(同所p158、p159)、大変示唆的な解説が付されています。すなわち、「草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ」とあり、続けて、「秋の田の露おもげなるけしきかな」と謎かけて、それを「」と読み解いています。つまり、夏の蛍の情緒を秋の星や秋露の風情と見ているのです。本作品はこの考案をひっくり返して、秋の名月、星々、さらには露を逆に蛍に見立てていると考えられます。秋の夜空に輝く名月の風情、夏の蛍狩りの如しというわけです。

 秋の寂寥感ではなく、このような賑わしい夏の幻想的表現を本作品が採ったのは、決して偶然ではなく、意図的なことと思われます。なぜならば、本作品が制作された文久2年(1862)の2月11日、皇女和宮と徳川家茂との婚礼があったからです。公武合体の気風は、本作品だけではなく、この時期の源氏絵一般の制作動機に影響があったものと推測されます。ましてや、絵師芳虎は、幕末の時流のあり方を何かと揶揄する国芳一派の高弟であることも忘れてはなりません。一番大きな光を放つ名月を(源氏)蛍の光と看做せば、それは光氏=徳川将軍(家茂)の威光の大きさを表すものと考えられますし、他方で月を和宮と看做せば、それを蛍狩りする光氏=徳川将軍(家茂)の姿が象徴的に描かれていることになります。この読み解きは、徳川将軍家の私事に立ち入り、いささかリスキーかもしれません。

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木曽海道六拾九次に聞く!

◆おわりに

 広重・英泉の木曽海道六拾九次は、構造的には、保永堂版東海道五拾三次(55枚)に15枚を加えた70枚と考えた方が理解しやすいと言えます。つまり、55枚の部分は、英泉と保永堂とがタッグを組んで主導権を握り、木曽街道ブームという2匹目のドジョウを狙ったということです。ところが予想外にも、英泉を頼みとできない事情があったのか、早い段階で広重が参入することになり、55枚の完成それ自体も大変苦労する始末です。55枚を超えた残り15枚部分に保永堂が本当に関心があったのか疑問ですが、その余の部分は、結局、広重と錦樹堂との組み合わせで何とか完成に至ります。経緯を考えると、木曽海道六拾九次は広重と錦樹堂の功績と判断して良いのではないでしょうか。

 中山道を旅する重要な目的の1つに善光寺参りがあります。しかし、善光寺道と中山道は追分宿で分岐する結果、庶民に関心の高い善光寺道沿いのいくつかの名所が木曽海道六拾九次から排除されてしまいます。たとえば、川中島(合戦)、善光寺、更級・田毎の月などです。ところが、『岐蘓路安見絵図』や『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』を見ると、追分から塩尻(洗馬)の間の中山道の北側に善光寺道が並行して描かれていて、道中絵図を売るには善光寺道を無視できないことが判ります。とすれば、木曽海道六拾九次を制作する絵師も同じことを考えるはずで、中山道の各情景を描く際、善光寺道の名所情緒を取り入れて表現するであろうことが想像できます。「小田井」で善光寺、「岩村田」「塩名田」で千曲川・川中島(合戦)、「望月」「芦田」「長久保」で更級・田毎の月の情緒を読み込む所以です。

 木曽海道六拾九次に一番ゆかりのある人物と言えば、木曽をその名に背負う「朝日将軍木曽義仲」です。名月、驟雨などの背後に、木曽義仲およびその一族の思いが仮託されていないか度々確認してきたところです。生前の朝日(将軍)と亡き後の名月という対比構造は、絵師にはかなり魅力的な題材と思われます。

 中山道を木曽街道と呼ぶのは、まさに木曽路を通るからです。その木曽路が始まる「本山」「贄川」では、その重みを意識した作品の読み解きが必要になります。また、木曽路を終え、美濃路が始まる「落合」において、広重のスケッチ帖を元絵とする作品が開始されることも象徴的です。美濃路は、刻々と「関ヶ原」に近づいて行くため、今日、私達が思う以上に絵師は相当気を遣って考案しているはずです。そのため、各作品をスケッチ帖に基づく実景描写であると安易に評価することだけは避けるよう努めました。もちろん、広重のスケッチ帖は、浮世絵制作の機微を知ることができ、大変、意義深いものがあります。しかし、構想作品であろうと、実景作品であろうと、浮世絵に変わりはないので、制作・営業意図や商品性という部分を見落とさないように作品を見つめました。その結果、構想作品にも有用な事実情報が提供されていること、実景作品にも深い構想が施されていることがそれぞれ判りました。

 最後は、自画自賛になってしまいましたが、木曽海道六拾九次に何度も問い(聞き)続けた結果、従来にはない新しい見方が得られたのであれば、望外の幸せです。(完)

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木曽海道六拾九次一覧

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まぼろしの山城国 「三條大橋」

広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇(嘉永4・1851年~) 春友亭


Photo 広重・英泉の木曽海道六拾九次には、残念ながら、山城国「三条大橋」もしくは「京師」の図はありません。保永堂版東海道の「京師」副題「三條大橋」で代替する趣旨かもしれません。また、制作上の制約という観点で言えば、日本橋1枚と宿場69枚の計70枚の偶数は、見開き2枚1組の画帳を念頭に置いた場合、作品数としてはちょうど良い枚数になります。ただし、もし、木曽海道シリーズに該当作品があれば、どんな名所絵になっていたのかは興味のあるところです。なお、上記は、広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇に描かれる作品です。人物群は、保永堂版東海道「三條大橋」とほぼ同じで、人物の向きを反対にとって表現されたものとなっています。被衣(かずき)を被った公家の子女と下女に日傘を差しかけて貰う商家の子女が擦れ違う様が描かれ、その前後にやはり日傘を差す武士と茶筅(ちゃせん)売りが歩いています。背景に、比叡山、日ノ岡山、粟田口が見えています。

 ちなみに、後掲『岐蘓路安見絵図』(三条橋)には、「平安城は山城国愛宕郡宇多の邑にあり。桓武天皇の帝の時、山城の国長岡の京より今の都に宮所をうつさせ給ふ」と記され、愛宕山を背景に二条城が描かれています。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(三条橋)

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70 近江国 「大津」

「七拾 木曽海道六拾九次之内 大津」  廣重画 錦樹堂


Dijital071 草津宿を発って、瀬田川に架かる大橋、小橋(勢田の唐橋)を渡り、湖畔に膳所(ぜぜ)城を見て進むと、街道左手に木曽義仲の墓所・義仲寺があります。そこには、松尾芭蕉の墓もあります。その先の立場を石場、この辺りの浜を打出の浜と言い、大津宿の東端に当たります。大津は天智天皇の大津宮の造営以来、政治的重要性はもちろんのこと、軍事上の要地であり、陸水運による物資の供給地として発展しました。近世においては、延暦寺・園城寺(おんじょうじ)(三井寺)の門前町として栄えました。『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此駅は都よりはじめての所なればにや旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧(かまびす)し。濱邉のかたは淡海國に領ぜらる。諸侯の蔵屋しきならび入舩出舩賑ひ都(すべ)て大津の町の数九十六町あり…」とあります。札の辻の北側山頂にあった長等山(ながらさん)園城寺(三井寺)については、大友皇子の殿舎を後に寺に作り直したので「園城」の字を用いると記しています。なお、その観音堂は西国巡礼第14番の札所に当たります。

 後掲『岐蘓路安見絵図』(大津)を見ると、「三井寺道」の分岐点に高札場があり、いわゆる「札の辻」と呼ばれる場所から街道が(直角に)折れ、「相坂」(逢坂峠)に向かっているのが判ります。その先に「はしり井」があり、西方には伏見街道の追分があるという地理関係です。走井は、保永堂版東海道「大津」副題「走井茶屋」の画題です。これに対して、木曽海道シリーズで広重が描いたのは、札の辻から少し上った坂より琵琶湖方向を遠望する構図と考えられます。札の辻辺りが大津宿の中心ですから、その場所を見下ろす視点となります。広重のスケッチ帖に、「大津柴屋町遊女」(『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』p215)と題する図がありますが、風景スケッチではないので、当作品の元絵とは考えらません。つまり、当作品は書き下ろし作品ということになります。

 作品内容を見ると、左側、牛車で荷を上方へ運ぶ情景は、大津湊が物流の拠点であることを示すものです。対して右側、縁飾りの付いた菅笠で坂を歩く女3人は、前掲「草津」と同様に、女達にも普及した寺社参詣・物見遊山あるいは見送り帰りの姿を表現するのかもしれません。街道両側に並ぶ旅籠・料理茶店などの先、遠近法上の消失点上に、札の辻(京町)・琵琶湖・白帆・比良の山々を描き、開放感のある空に雁の群れ、そして一文字ぼかしを入れる安定した構図です。しかし、店々の旗・暖簾・壁などに各種の文字が散りばめられていて、賑わしい印象を受けます。左側には、錦樹堂の版元印、「いせり」、「大當」、「新板」、「大吉」等、右側には、「丸金」、「中仙堂?」、「丸金」、「全」、「ヒロ」、「重」等と書かれています。一番大きな文字である壁の「全」は、全シリーズ完成を宣言するものです。版元・錦樹堂(伊勢屋利兵衛)と絵師・広重の当シリーズ版行がこれにて終了し、大当・大吉で金になることを願掛け(雁翔け)する、一種、楽屋落ちの最終作品です。大空の雁の群れをこのような意味に読み解いてみました。

 確かに制作者側の気持ちはよく判りますが、まだ京都まで3里残っていることを忘れてはなりません。伏見街道との追分を過ぎて逢坂山を越えると山城国に入り、日ノ岡山を越えると、ようやく粟田口(あわたぐち)から三条大橋に至ります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(大津)

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