2008年2月16日 (土)

カマキリの予言

 最近、ブログの更新が止まっていますが、一月中に浮世絵の里親を求めるギャラリー活動を行った後、ほっとして体調を崩しました。始めてから第九回目を迎える恒例の活動で、多くの方に期待していただいていますので、いつも無理してしまいます。

 さて、昨年、カマキリの卵が冬が近づくにつれて、低い位置で発見されるとブログに書きましたが、今のところ、降雪量は少なく、どうやら、カマキリの予言通りになりそうです。屋根の雪下ろしも一度もしていません。

 屋根の雪が積もっているのを利用して、二階の屋根の高さを越えてしまったケヤキの木を伐採しようと考えています。枝が落ちても、屋根を傷めない工夫です。住み始めた当初、一階の屋根の高さにも満たなかったケヤキですが、今では、三倍ほどの高さです。高所作業車を使って伐採します。軒下に雪が溜まり落ちないので、屋根さんに勧められました。

 冬の新月の時に切った木は、乾燥していて良材になると言いますので、使うわけではありませんが、木の生長リズムを考えるとちょうど良い時期ではないでしょうか。新月伐採と言うようです。ついでに、庭のプルーンも剪定してみようかな。リンゴ農家の方も、この冬の中、枝の剪定をしています。木々の水(養分)が上がっていないので、ダメージも少ないのでしょうね。

 自然を見ていると、成長の前には、伐採や剪定が必要なことがよくわかります。というわけで、体を休めながら、人生の枝葉の剪定をしているところです。happy01

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2008年1月 4日 (金)

直江山城守(1)

24ko1 左作品は、三代豊国の『當櫓看板揃』シリーズの山本勘助(河原崎権十郎)と直江山城(板東彦三郎)です。NHK大河ドラマ『山本勘助』を見た方には、山本勘助と対峙するのは、緒方拳演ずる宇佐美定満ではないかと思われるのではないでしょうか?宇佐美は越後の軍師格と目される人物ですし、年齢的にも勘助と釣り合います。

 ところが、浮世絵に描かれているのは、度々指摘しているとおり『本朝二十四孝』という江戸時代流行した歌舞伎で、そこでは、横蔵(後の山本勘助)と慈悲蔵(後の直江山城)とが互いに武田方と越後方への忠義を競い合います。したがって、役者絵に描かれる勘助は、多くの場合、直江と一対に描かれることが多いのです。横蔵という名前からも解るとおり、勘助はヤンチャな人物として、一方、直江は慈悲蔵という名からも想像されるように、まじめな人物として仕立てられています。曾我兄弟を彷彿させますね。実際に、勘助と直江は、なんと兄弟という設定です。

 史実と係わりのある浮世絵を見る際、描かれた内容と史実とを比べてしまいますが、描かれたドラマを読み解くことが先決です。さもないと、浮世絵を手に入れて楽しんだ庶民の気持ちから遠く離れてしまいます。川中島合戦を描く作品には、時として、史実から離れて活躍する武将が登場します。これも、当時庶民に普及していたドラマ、講釈、伝承などの影響ですし、こうすることが浮世絵販売には重要であったということです。

 勘助伝説も、史実の結果なのか、庶民に流布した当時のドラマの影響なのかを区別しないと、ドラマに秘められた真実を見逃してしまうことになります。以後、直江山城の登場する浮世絵を取り上げつつ、直江に仮託された庶民感情を読み解ければ幸いなのですが。さて、どうなりますか。本年も、また、よろしくお願いいたします。

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2007年11月25日 (日)

一光三尊仏

Takadal 大分以前のことになりますが、義母の法事を札幌市で行った際、宗派が真宗高田派であるということを聞いたことがありました。初めて聞いた名でしたから、特に記憶に残りました。そこで、最近、右の三代豊国の浮世絵(三枚続)に出会い、調べてみるとおもしろいことに気付きました。

 真宗高田派の総本山は、現在、三重県の津市にあるそうです。実は、義父の父は三重県の津市出身で、戦前、旧国鉄の職員となり、最終地を北海道で迎え、そのまま、北海道に定住したそうです。つまり、出身地の習俗をそのまま、北海道まで伝えたということになります。

 ところで、津市にあるのに、なぜ高田派というかといえば、もともと、本山が栃木県の二宮町高田にあったので、その山号・高田山に由来しています。右の浮世絵に描かれる立札に、「下野国 高田山」とあるのがそれに当たります。ここでは、元本山と呼んでおきます。

 さて、この元本山は、関東布教の根拠地として浄土真宗の開祖・親鸞によって建立された寺として知られ、その本尊が信州善光寺の本尊である秘仏を模した一光三尊仏なのです。浮世絵には、「信州善光寺如来一躰分身」と書かれています。善光寺に由来する一光三尊仏を本尊とするということで、話は振り出しに戻って、善光寺の地に住む私達家族まで繋がるのです。

 浮世絵の説明として、是非とも加えておかなければならないのは、当作品は、本尊などを他所に持ち出して開帳する、「出開帳」(でかいちょう)を描くものである点です。出開帳は、寺社が建物等の建設・維持管理などのための資金捻出方法で、高田派の場合は、本山と元本山とに別れ、資金能力が落ちてしまったことに対する苦心の策なのだと思われます。出開帳を成功させるためには、「信州善光寺如来一躰分身」は大きな役割を果たしたものと想像されます。

 出開帳は、安政六年「未年三月廿一日より五十日之間」「浅草唯念寺」 で行われたとあり、当時の様子を記録する『武江年表』安政六年の項にも、「参詣多し」とあります。上の作品は、安政五年八月の年月印が押されていますから、半年ほど前からの予告作品ということができます。浮世絵が宣伝広告の機能を果たした例です。

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2007年10月29日 (月)

BLuck-PTA総会

Zepp 札幌(Zepp)で行われたBLuck単独ライブに夫婦ともに招待していただき、楽しく見させていただきました。ライブだけでも堪能できたのに、その後開かれた親睦会では、各メンバーのご両親とも会え、ほほえましいPTA総会となりました。

 リーダーは各家族に率先して挨拶して回っており、細かな気遣いを感じましたが、わが家の惣領息子は、家族が揃った雰囲気に俄然テンションが上がり騒ぎまくっていました。本番でキャラを発揮しろと思いました。キャラ薄いんだから!

 広司君のご両親と同席になりましたが、性格は母親譲りと見抜きました。おもしろかった。大輔君のご両親は気さくな方達で、私たちラブラブなのと腕を組んでいました(暴露して、まずかったかな!)。これはアルコールの影響でないと断言します。大ちゃんの素直な性格も納得できます。ところで、かなり騒がしい中にもかかわらず、三田地君は一人別の世界に行っているようです。恐るべし、みっちゃん。ご両親には、天然コミカルな要素は全く見いだせなかったのですけれど…。

 福田君は各家族への挨拶の後、一家団欒でテーブルを囲んでいましたが、責任感から解放されて、一人の子供に戻っているようでした。たぶん、他のメンバーも同じ気持ちなのでしょう。本当に楽しそうでした。ちなみに、岩ちゃんが、「きょうのことブログに載せたら」と発言したことを受けて、親睦会の状況を載せてみました。岩ちゃんを筆頭に、スタッフの気遣いには大変感謝しています。

 北海道ではナナカマドが綺麗に紅葉していました。同じ北国でも、長野県ではあれほどには赤くならないのですよ。北海道なら、BLuckも大成するかもしれませんね。家内はすでに左団扇の練習をしています。

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2007年10月11日 (木)

カマキリも迷う

Yellow 我が庭では、今ちょうど黄色のコスモスの花がいい具合に咲いています。旧暦九月(ながつき)に当たり、菊月ですが、秋桜が咲いているというわけです。ちなみに、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは、九月十日とされていますから、それが事実ならば、今頃の季節の中で行われたということになります。

 ところで、今年の冬の降雪量はどうなりますかね。最近、カマキリの卵をよく見かけます。初めの内は、随分と高い所に産み付けられたものをよく発見していましたので、これは積雪が多いのかなと思っていました。ところが、それから二週間ほどしたこの頃は、逆に地上に近いところに見つけられます。

 実は、一昨年の大雪の年、カマキリの卵は決して高いところに産み付けられてはいなかったのですが、意外にも降雪が深く、多くの卵が死滅したのではないかと考えているのです。カマキリの立場に身を置けば、同じ過ちは犯したくないと当然思います(?)。したがって、異常気象に対応して、高所だけでは不安なので、押さえで低いところにも産み付けられているのではないでしょうか。カマキリも大変だ。

 異常に暑い夏の影響で、初めの内は虫の活動が活発で高いところまで登って産み付けていたのが、今度は急に気温が下がって、地上に近い部分に慌てて産み付けたという分析もできますが。例年通り、いつもと同じように済ませようという人間の方が横着なのかもしれません。

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2007年9月14日 (金)

モロコシ畑の熊さん

 昨日の朝、隣の畑のばあちゃんがトウモロコシを持ってきてくれました。有難いものです、収穫したてをいただけるなんて!ところが、夕方、再び、同じばあちゃんがトウモロコシを抱えて、我が家の玄関にやってきました。これは、ばあちゃん、ぼけて、朝くれたことを忘れ、また持ってきてくれたのだと思い、「朝、いただいたばかりなのに」と声をかけました。

 ところが「今朝、熊が出て、トウモロコシを食べられてしまったので、早めに収穫するから、あげるよ」という返事。私の家の前の通りは、中村通りといって、小さいながら部落の中心の道です。ここまで、熊がでるなんて、ここに引っ越してきて以来の事件です。足跡から推測すると、道沿いに山から来て、畑に入ってトウモロコシを食べていったようで、おいしい部分だけをつまんでいったらしいです。その畑からさらに下に住む長老が、朝表に出たところ熊に遭遇し、結局、熊は川沿いに山に戻っていたと聞いています。

 というわけで、隣の畑には、熊の仕掛がかけられています。もし、罠に引っかかったら、写真をアップしたいと思いますが、ばあちゃんの話だと、熊は頭が良いので、たぶん、もう同じ場所には来ないだろうとのこと。「朝や晩には、気をつけな!」 と言い残して、ばあちゃんは帰っていきました。

 最近、庭で草取りをしていたところ、蜂にさされ、家内に「田舎の良さだよ」とうそぶいていましたが、隣の畑に熊が出ては田舎の良さだけでは済まされないですね。例年、熊はもう少し山側で出ていましたが、ついに里まで出没するようになりました。田舎では高齢化が進み、たんぼ道を歩いているのはお年寄りばかりで、冗談で「野生のじいちゃんだ、ばあちゃんだ」と言っていましたが、そのうち、野生の動物ばかりになってしまうかもしれません。

 飯綱町より、モロコシ畑の熊さんのお話でした。(?)

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2007年9月 3日 (月)

山本勘助(8)

 人形浄瑠璃・歌舞伎に太閤記物と呼ばれる一系統があります。豊臣秀吉の一代記に取材したもので、享保四年(1719)、近松門左衛門の『本朝三国志』を嚆矢とします。『本朝三国志』という題名からも判るとおり、中国の『三国志』の焼き直しともいえます。

 また、川中島合戦物ということからいえば、やはり、近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦』が享保六年(1721)に初演されており、二段目では、武田信玄が劉備玄徳の三顧の礼を学んで雪の中に山本勘助の住まいを訪れる場面が出てきます。この点から見ても、川中島合戦物も『三国志』を下敷きにしているということが理解できると思います。

 ところが、太閤記物と浮世絵との観点でいうと、喜多川歌麿の大判三枚続の浮世絵『太閤五妻洛東遊観之図』が幕府の取り締まりに触れ、文化元年(1804)、歌麿の作品は絶版、すでに刊行されていた読本『絵本太閤記』までも絶版を命じられ、歌麿自身も手鎖五十日の刑等を受けています。ここに、太閤記物が浮世絵の世界で大きく展開する可能性が摘まれてしまいました。

 さて、このような前段があって、その後、天保の改革の直後から、川中島合戦の浮世絵が歌川派の絵師等によって多数制作されます。美人や役者の浮世絵への規制がきつく、比較的規制の緩い武者絵に注目が当たったのかもしれませんが、太閤記物への展開が事実上不可能であったことが原因して、庶民に要望の多かった三国志の本朝版として、川中島合戦の浮世絵が多数制作されたのではないでしょうか?

 したがって、武田信玄には軍師山本勘助が必要になるのです。ただし、そこからさらに一歩進めたのが、国芳とその版元達の知恵であったように思われます。すなわち、太閤記そのものも川中島合戦に重ね合わせてしまったのではないかという疑いです。

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2007年8月24日 (金)

裁判員制度

 仕事で長野地裁諏訪支部に行ったときのことですが、裁判所の掲示板に「裁判員選任を装った悪質行為についてご注意下さい」という張り紙がありました。内容は、裁判員に選任されたので、連絡の必要上、住所、氏名、家族構成、職業などを教えて欲しいという虚偽の問い合わせがあり、個人情報を聞き出そうとする悪質事例の報告でした。実際、まだ裁判員の候補者を選ぶ段階にはなっていないので、このようなことがあるはずもなく、そもそも、裁判員に選ばれたとしても、裁判所が電話等でこのような個人情報を尋ねることもありえません。

 裁判員制度は、刑事司法の場に市民感覚を持ち込み、より公平な判決等を導き出すための方策として構築されたものですが、反対に市民社会の垢にまみれ、不公正な結果に至らしめるかもしれないと危惧しています。裁判官は遠く市民社会から離れた生活をし、ある面では非常識との誹りを免れない部分もあります。しかし、そのための方策として、一気に市民と同じ世界で法的判断を重ねるとするのはいかがなものでしょうか。

 市民感覚に富んだ裁判官を養成するための制度が必要です。それがあって、はじめての裁判員制度でなければならないし、現状では「市民」の捉え方が非常に観念的です。「市民」は全体として適切な判断を下すことは可能です。選挙結果などがその良い例です。が、一人一人の市民が常にだれでも的確な判断を下すことはなかなか難しいものです。机に座っている司法官僚の考えた制度なのでしょう。

 『市民の浮世絵美術館』を主宰する立場上、また刑事法学者であった経歴からしても、いずれはこのことに触れなければならないと考えていましたので、今後は、もう少し明確に主張していくつもりです。なぜ、『浮世絵美術館』の前に『市民』がついているのかの回答にもなるでしょうから。

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2007年7月28日 (土)

山本勘助(7)

 前回紹介した国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』のアイデアは、すでに寛政九年(1797)、秋里籬島『東海道名所図会』のなかに見ることができます。そこでは、「三州牛久保山本勘助故居」(さんしゅううしのくぼやまもとかんすけのこきょ)と題する図絵があり、隻眼の勘助が雪降り積もる山中の芳蘆にて書を読んでおり、武田晴信(信玄)が軍師として迎えるため、家の門に在来している様が描かれています。「三顧の礼」を思い起こす図柄です。

 ただし、晴信と勘助の出会いを「三顧の礼」に準えるのは、『東海道名所図会』の考案かというと決してそうではなく、享保六年(1721)初演、近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦・二段目』にあり、そのなかでは、勘助の老母越路を説いて主従の約束をする展開となっています。また、明和三年(1766)には、信州川中島合戦を先行作とする『本朝廿四孝』が初演されているので、雪中での筍掘りも周知のこととなっています。

 こうして見ると、国芳の当該絵柄は、先行する人形浄瑠璃や歌舞伎狂言を受けて描かれ、すでに『東海道名所図会』などによって、ある程度完成されているイメージに基づいていることがよくわかります。このことは重要な観点で、国芳が歴史的事実を直接武者絵として仕立ててはいないということです。

 三代豊国などの作品の場合、歌舞伎狂言や戯作などが下敷きにされていないか探りますが、国芳の武者絵や広重の風景などについては、この観点をわりと見落としがちです。川中島合戦の浮世絵など、歴史的事実と異なって描かれていることしばしばですが、これは当時庶民に流布していた歌舞伎、講釈などのドラマ(フィクション)を描いているということを思い起こせば、十分に納得できる事態なのです。浮世絵は事実ではなく、真実を伝えるものなのです。

 江戸庶民周知の『本朝廿四孝』の「筍掘り」の場面は、後の山本勘助と直江山城守が登場します。したがって、役者絵としてではなく武者絵として制作する場合でも、川中島合戦に軍師山本勘助を登場させた際、実際に居たかどうか不明でも、均衡するように、知将直江山城守も描かれます。描かなければ、かえって批判されてしまうかもしれませんね。

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2007年7月 6日 (金)

山本勘助(6)

53tsui1 左の浮世絵は、歌川国芳の『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』と題する大判錦絵です。絵柄の解説は次回以降に譲るとして、今回は、作品に付されている書き入れに注目してみます。

 なかでも、最後の締め部分「或人伝…其頃名高き竹中穴山佐奈田など此山本勘助が門子とぞ聞えし」という部分を考えてみましょう。

 竹中(半兵衛)は、豊臣秀吉が織田信長の家臣時代の軍師で、秀吉の出世を支えた名軍師です。つぎに、穴山(梅雪)は、武田二十四将の一人で、勘助亡きあと、その外交能力を生かし、武田勝頼を補佐した武田家の重鎮です。最後の佐奈田は、父昌幸、その子信繁のいずれか定かではありませんが、昌幸は関ヶ原の合戦直前、秀忠の徳川軍本体に勝利した強者ですし、信繁は幸村としての方が有名で、大阪夏冬の陣で徳川旗本勢を散々に蹴散らした知将です。

 これら三人は、いずれも親徳川的軍師ではなく、竹中は豊臣側人物、穴山は武田から徳川に寝返ったのですが、それ故、徳川が一目置かなければならない人物、佐奈田は反徳川的人物です。これらの師が山本勘助であるというのですから、江戸庶民にとっての勘助人気は、ただ単に武田の名軍師というだけではなく、徳川に何か一矢を報いたい思いが潜んでいるのではないでしょうか?

 この東海道五十三対の作品は、天保の改革の後に版行されていますが、天保の改革以後の国芳作品の特徴は、改革あるいは幕政を揶揄することによって、大いに人気を得ているということです。山本勘助の活躍は、川中島合戦の浮世絵の一つの核をなしています。でも、その本当の理由は、戦国の英雄的軍師という単純なところにあるのではなく、改革や幕政への風刺を仮託された人物として扱われていると読み解いてみました。

 とすると、山本勘助の活躍に共感する江戸庶民は、これら浮世絵の背後に具体的には何をみているのでしょうか?ヒントは、天保の改革後、弘化初年頃より国芳が使用し始める、そしてこの浮世絵にも押されている、桐のマーク「芳桐」です。つまり、五三の桐・豊臣、太閤記です。この点については、また、機会を改めて…。

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