狂歌入り東海道に聞く!

 『狂歌入り東海道』の絵を見ていて強く思うことがあります。それは、東海道が日本橋から三条大橋まで続く一本の街道ではなく、川で分断し、追分で分岐するいくつもの脇街道を持つ大道であるということです。広重が、宿場それ自体よりは、橋梁、船渡し、徒歩渡し、そして何よりも、度々追分を制作の基点に置いていることからも十分に確認できます。実際、旅行者には名所風景よりも、それらの方が重要な情報だからです。したがって、たとえば、掛川宿の作品では、秋葉街道への追分の鳥居が絵の主題になっており、同時に、狂歌も秋葉街道を詠っているという訳です。

 ところが、四日市宿において、広重は伊勢街道の日永の追分(鳥居)を主題から外しています。江戸からお伊勢参りに向かう際、四日市宿がその拠点となることは誰しも知っていることとは言え、絵にしないで良い程の重要度なのでしょうか。そこでもう一度作品を見返してみると、三重川に架かる土橋の手前側に、柄杓を持つ抜参りの少年3人と、猿田彦(天狗)の面を背負う金比羅参り(代参)の男が橋を渡ろうとしているのに気付きます。実は、前掲『東海道中膝栗毛 五編上』(岩波文庫p36以下)に、追分の茶屋で弥次さんと金比羅参りの男が饅頭の賭け食いをする場面があって、結局は弥次さんは300文騙し取られるのですが、弥次さんは抜参りの少年達がその饅頭を男から貰って食べているのを見て、これも功徳だとして溜飲を下げ、伊勢へと向かうのです。これが日永の追分(鳥居)脇の茶屋でのことと分かれば、四日市の作品にも間違いなく、伊勢街道の追分情報が入っていると言うことができます。

 『狂歌入り東海道』の狂歌を見ていていくつかの事を学びました。たとえば、戸塚宿の狂歌では「とつかは」という言葉が、あわてて動作をする意味として地口に使われています。つまり、戸塚宿には元から何か慌ただしい雰囲気があるということです。これを念頭に置くと、保永堂版において侍が馬から飛び降りる様子が描写され、女一人旅が敢えて描き入れられている理由も、とつかはとする情景描写と読み解くことができます。また、袋井宿の狂歌から「袋井」の地口として、「ふく」(膨、吹、腹など)があることを知ります。とすると、保永堂版において竈(かまど)からもうもうと煙が上がっている情景も、風もしくは煙「吹く袋井」という地口をベースにした表現と読み解くことができます。

 『狂歌入り東海道』は、絵による意外にも正確な街道情報と、狂歌による地口・ユーモアの遊びの部分との組み合わせで構成されています。この後者の部分が『狂歌入り東海道』の特徴なのは言うまでもないのですが、重要なのは、その特徴を使って他の東海道シリーズを読み解くことができるという点です。これは、構想的性格が強い保永堂版を理解するにはかなり優れた視点です。ただし、本講座の中心的課題ではないので、いくつかの具体例を提示するに止めておきます。その余の議論については、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)をも利用して、また機会を改め提言したいと考えています。

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〈56〉東海道大尾 京 内裏

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「おもひ立 さい先よしと いそ五十路 こえてみやこを けふみつの空 紅翠亭郡子」

 「内裏」とはありますが、御所門前を描く狂歌入り版です。やはり、中判揃物である、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)にも56枚目に「京都ノ圖」があって、平板な狂歌入り版の様子がよく分かる作品となっています(下記図版参照)。石積みの上に屋根付きの土塀があり、一段奥まった門前に板塀があり、参内する人はこの板塀の両脇から入って行くのでしょう。門前の道路には、公家を駕籠で運ぶ行列が見え、その奥には被き姿の2人の女とお供を従える女将風な女が描かれています。束帯姿で笏を持つ2人の公家は、あるいは武士が御所に参内する正装なのかもしれません。武士と小姓が日傘を差し掛けています。江戸ではあまり見られない風俗として紹介されています。重要な点は、都には公家やその頂点をなす天皇が居り、武士階級の上に存在していることが暗示されていることです。同じことは、お伊勢参りによって、伊勢神宮に皇祖天照大神が坐すことを江戸庶民が自覚する点にも当てはまります。江戸時代末期、将軍家から天皇家への大政奉還が庶民に自然に受け入れられる下地も、ここにあります。

 狂歌は、「おもひ立 さい先よしと」、つまり、思い立ったが吉日と、いそいそと「五十路」(50の宿路)を越えて、ついに都に今日で(50と)3つ目の空を見るという内容です。「いそ五十路」でいそいそと五十路(いそじ)、「けふ」で今日と京、「みつ」で見つと3つをそれぞれ掛け、また、みやことけふ(京)の縁語を用い、十二分に言葉遊びを堪能するものとなっています。くわえて、50+3で、東海道五十三次を詠い込んでおり、狂歌の最後を飾るに相応しい秀歌で締めくくっています。都を象徴するような「紅」(赤)と「翠」(緑)を組合わせた狂歌師の名前も、粋な命名です。

Bijinnt55

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〈55〉東海道五拾三次 京 三条大橋ノ圖

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「鳴神の 音にきこえし 大橋は 雲の上ふむ こゝちこそすれ 鶴の屋松門」

 東海道の西の起点、鴨川に架かる三条大橋を正面から粟田口方向を見据える構図での作品です。近景の擬宝珠の並ぶ高欄の背後、中景には京都を代表する東山三十六峰が描かれ、右側中腹に清水寺の大屋根が確認できます。通例、画中に五重塔「八坂塔」が描かれることが多いのですが、狂歌入り版では見付けることができません。なお、広重『東海道風景図会』「京三條大橋」には、嵐雪の「蒲団着てねたるすがたや東山」という句が紹介されており、これが江戸っ子が思う東山を象徴しているのかもしれません。遠景には都の北東鬼門を守る、比叡山のイメージが写されています。三条大橋の三条が仏教用語「三乗」(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)に通じ、その橋が仏教の聖地比叡山(延暦寺)と一直線に繋がっている構成は、京都が仏都(浄土)であることを強く感じさせます。したがって、三条大橋を僧侶が渡ってくる姿も京都ならではの情景です。橋を渡る人々は、江戸日本橋と対比されており、柴や梯子を売る大原女、被き姿の女性達、茶筅売り、日傘を差す武家の一行などが行き交う様子があり、都の風俗を紹介する趣旨です。言うまでもなく、京都には多くの名所・見所がありますが、それらは、広重『京都名所之内』に譲ることとなります。

 狂歌は、「鳴神の音」(雷鳴)のように天下にその名を轟かせる三条「大橋」を渡るのは、まるで「雲の上」を歩むような「こゝち」(心地)がするという、高欄の三条大橋を詠ったものです。「雲」は「鳴神」の縁語ですが、「天」にも通じ、御所のある京都への憧れも隠されているのかもしれません。日本橋の狂歌「日本橋 たゞ一すぢに 都まで 遠くて近き はるがすみかな」を思い起こすと、日本橋では春霞に隠れていた都が、三条大橋ではついに雲の上から見通すことができるまで間近になった感激が伝わり、狂歌の呼応関係も読み取ることができます。前掲『東海道風景図会』の柳下亭種員の跋詞には、「日毎/\に京着(きょういり)の、旅人にぎはふ東山、兜軍記に由縁ある、清水寺や五條坂へも間近き三條大はしが、即ち巻の終にて」とあり、普通ならば、ここで東海道五十三次の揃物シリーズは終わるのですが、狂歌入り版は中判揃物なので、大判1枚で2丁摺るということから、次に紹介する「大尾」作品がさらに続き、56枚目での完結となります。

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〈54〉東海道五拾三次 大津

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「君が代の たからを積みて 門出の 仕合よしと いさむうしかひ 常磐園松成」

 琵琶湖の大津湊を描いていることは分かりますが、狂歌入り版が実景とするならば、いったいどこの場所でしょうか。ヒントは、画中右端に見切れる石場の常夜灯です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「大津」を参照すると、湖畔の膳所(ぜぜ)城(「城主本多下総守」)の西側に「ばせをつか」「義仲寺」があり、それを過ぎたところに「立ハ石場」とあります。湖側に「矢ばせより舟つき」とあり、この辺りを前景にして、中景に「大津町九十八丁」、遠景に「三井寺」のある比叡山と比良の山々を一望する視点構成と思われます。近景の茶屋と大津湊から堅田浦の遠望が、何か前掲「品川」にも似た雰囲気を醸し出しています。品川は旅の見送り・出迎えの宿場(湊)であり、また、大津も旅人との再会を祝う「酒迎(さかむか)え」の宿場(湊)として知られています。

 琵琶湖周辺には多くの名所がありますが、具体的情景は広重『近江八景之内』に譲ることとして、狂歌入り版は単純な湊の茶屋風景です。ここの茶屋では、おそらく、背景の堅田浦で獲れた「源五郎鮒」の鮓(すし)が名物として売られていたはずです。『東海道名所圖會 巻の一』(前掲『新訂東海道名所図会上』p155)に、「むかしより淡海の名産に、源五郎鮒というあり。これは佐々木家一国を領せし時、家来に錦織(にしごり)源五郎という者、漁者(ぎょしゃ)を司る」、「これによってその支配司を、魚の名に呼ぶならわしとはなりにけるとぞ聞こえし」とあります。なお、同図鑑にはこの辺りから「阪本道」、「三井寺道」があることが記されており、戦国時代の坂本城、比叡山焼き討ちが想起され、明智光秀の見ていた風景が思い浮かぶばかりです。

 狂歌入り版の場所から西方に進むと東海道は宿場内を左に折れ、上り坂となります。この情景を描いたのが、広重『木曽海道六拾九次之内』「大津」です。そして、その坂道を上り終わり、下った所にあったのが山城国に近い「走井」で、それを画題とするのが保永堂版副題「走井茶店」です。そこには、大津湊に集積された各地の物資が牛車で東海道を通って京都に運ばれる様子が描かれています。まるで狂歌は、この保永堂版を見て詠っているかのような内容です。この世の(大事な)宝物を積んで、牛飼いが「仕合」「吉」の腹掛けを牛に着け、勇んで「門出」(出発)する様子です。「仕合」「吉」「門出」はいずれも荷牛・馬の腹掛けに染め抜かれた文字で、縁起を担いで、荷物の安全到着を願ったものと考えられます。

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〈53〉東海道五拾三次 草津

Kyokairit52
「たのしみの 日数かさねて 春雨に めぐむ草津の 旅の道芝 芝口屋丘住」

 草津宿の西にあった「矢倉」立場の風景で、有名な「うばもちや」「うばか餅」(姥が餅)の店の活況を描いています。作品の右側の軒先には、琵琶湖の矢橋(やばせ)湊へ至る矢橋街道との追分道標があるはずですが、大きな荷物を背負う馬と馬子が立っており、よく見えません。代わりに、「京橋仙女香」の看板が掛かっており、店とスポンサーの宣伝を優先させたことが分かります。他方、草津宿の東側には、東海道と中山道との追分の道標があって、こちらは、広重『木曽海道六十九次之内』「草津追分」の題材となっています。保永堂版は副題「名物立場」として、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p246~p247)を元絵としており、また狂歌入り版でも、視点を空中においてほぼ同様の店先風景を写しています。同名所図会、保永堂版(構想図)、狂歌入り版(実景図)のいずれもほとんど同じ定番の情景ですが、その理由は、姥が餅屋がいずれの作品においても、強力なスポンサーになっていると考えれば不思議ではありません。

 なお、荷を背負う馬の左側に、先導者と2人の瞽女が店から出てくる姿が描かれており、保永堂版「二川」の「名物かしは餅」を買い求める瞽女一行と同じ趣向と分かります。姥が餅については、近江源氏(六角氏)に連なる人物あるいは由緒ある家柄の幼児を、乳母が密かに養育するために売り出した餅に始まると言われています。前掲名所図会(p246)の図版には、「春風の吹くにつけてもあがれ/\ さたうをかけて姥がもちやくちや」とあるので、甘い餅であったと推測できます。ちなみに、室町時代後期の連歌師宗長が「武士(もののふ)のやばせの船は早くとも いそがば廻れ瀬田の長橋」と詠んだことから、「急がば回れ」という言葉が生まれたそうです。


 狂歌は、楽しい旅を重ね、春雨に芽吹く「草津」宿の草が旅の道案内(道芝)をしてくれるという程の意味で、春に絡めて「草津」の「草」と「道芝」の「芝」の縁語で遊んでいます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「草津」には、「湖水南北十九里東西八九里或は一里斗の所形琵琶に似たるゆゑびは湖といふなり」と記され、「矢橋」(矢橋の帰帆)、「のぢ」(野路の玉川)、「瀬田大橋」(瀬田の唐橋)など風光に優れる名所・歌枕の地が多く、確かに旅の道案内も必要でしょう。

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