秋野豊

 十年前の七月二十日、私は不思議な体験をしたことがあります。フランスでの文化イベントを終え、帰国した知人と長野市内のホテルで待ち合わせ、ワインを楽しんでいた時でした。とても愉快な気分で会話をし、フランスでの土産話に聞き入っていました。その際、ふと窓からなにげなく景色を眺めていたのですが、外の空、ビル、木々、車、人々等から急に色が失せ、セピアの風景が見えたのです。あれ、夢を見ているのかな、いやいや悪酔いだなと思い、窓から目をそらしました。

 しばらくは、知人の話を聞くふりをして、躊躇はあったのですが、もう一度窓の外を見ることにしました。いつものオールカラーの景色でした。ああ、よかったと思いながらも、今度は急に虚無感が込み上げてきました。生きているのがイヤになってしまったのです。私は比較的気分の安定した人間で、こんな体験は初めてでした。これは、もうこの場を切り上げろとの合図だなと感じ、さっさと会話を切り上げ、帰宅することとしました。たぶん、知人は私のことを随分自分勝手なやつと思ったに違いありません。

 実は、この時、国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官の秋野豊氏が命を亡くしたのです。秋野氏の師から携帯電話に連絡をいただき、その事実を確認したのでした。それによって、私の不思議な体験の理由は納得できましたが、しかし、なぜ古き友人の死を地球の半周分ほども離れた私が感じたのかは、不思議のまま残ったのでした。

 私は、この体験から変に教訓めいた話は引き出すつもりはありません。ただ、セピア色の景色の中で感じた、あの挫折感はもう二度と味わいたくないということはあります。生きている中での惨めさと死に向かっての惨めさとの間には、まるで橋が架かっていないように思います。

 この七月、秋野豊メモリアルコンサートが開かれるという報に接し、もう十年も経ったのかという感慨です。四つ年上の同僚であった君は、私より若い四十八のままではあるけれど…

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満開のバラ

Rose01  わが家の庭は、ちょうどバラの花々が満開の状況です。周囲は田園風景で、農家の建ち並ぶ一区画に土地があるため、表からの見栄えは和風ですが、連れあいの趣味でイングリッシュガーデン風(?)に仕立て直されました。「風」というのは、もともとは和風であった庭ゆえ、ツツジ、サツキ、アヤメ、あるいはトクサ、フキなどが、変な場所に取り残されているからです。

 時々、声を掛けてくれる近所のばーちゃんが、先日、庭の奥までやってきて、「町一番の庭園だ!」と驚いていました。それはそうでしょう、藁を持参してエンドウ豆の仕立て方を教えるために来たところ、まくら木を利用したキッチンガーデンに案内されたのですから。「他のもんに宣伝しなければ!」と言い残して帰って行きました。ちなみに、藁を細工するときは、先を水に濡らすと良いとのアドバイスでした。

 入植(?)した当初は、冬の降雪を考えて、雪に押しつぶされない木々、花々を選んでいましたが、最近はそれほど気にすることなく、庭に植えています。また、伐採した木や枯れ木を燃やすのを趣味としていました。しかし、残念なのは、二酸化炭素の排出との関連で原則許されなくなったことです。木々が固定した二酸化炭素を再び放出するだけなので、影響はないはずですけれども。田舎に育った子供達が、木々の燃やし方を知らないなんて全くおかしいですよね。

 当初植えた木々が大きくなって、とてものこぎりでは間に合わなくなったので、年内にチェーンソーを手に入れて、思い切り、木々の手入れをする予定です。田舎暮らしの特権として、末の息子に、使い方を教えようと考えています。単車で飛ばすのと同じくらい、爽快なはずです。

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怨霊と善光寺

 善光寺縁起によると、御本尊たる三尊仏は遠く印度から百済を経て、欽明天皇十三年(552年)、日本に渡ったとされており、この時、大臣・蘇我稲目は尊像を信受することを天皇に奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。結果的には、 この尊像は蘇我稲目に預けられ、稲目は家を寺に改めて、これが我国最初の仏教寺院向原寺となりました。

 しかし、稲目と尾輿との対立の中で、尊像は難波の堀江に投げ捨てられてしまいます。物部氏が亡びた後、信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参り、たまたまこの難波の堀江にさしかかった際、水中より燦然と輝く尊像が出現したといいます。善光はその尊象を背負って信濃に持ち帰りました。そして、皇極帝の時代に、善光らは都に召されて伽藍造営の勅許が下されることとなり、三国伝来の三尊仏を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」となりました。

 以上の善光寺縁起の中で注目されるのは、善光寺の尊仏が百済(聖明王)からもたらされた点、および蘇我氏に縁がある点です。当時の天皇家の外交政策は、親百済ですから、百済伝来の尊仏のために本堂を創建することには十分政治的意味があります。しかし、天皇家(大王家)と蘇我氏との政治的対立は、退っ引きならないほどの緊迫関係にあります。いわゆる「大化の改新」の発端となった、乙巳の変(いっしのへん)は皇極帝の時の事件です。その蘇我氏縁の尊仏のために本堂を建設すること、さらには蘇我氏滅亡後もそのまま伽藍を存在させることがありえるのでしょうか?

 善光寺縁起はもちろん、時代を下ってからの創作かもしれませんが、ここに善光寺創建に纏わる政治的意図が隠されているように思われます。後の奈良朝、聖武天皇・光明皇后の時代、東大寺に大仏が建立されます。都の東北鬼門の方向に当たり、風水の理論に従っていることがわかりますが、他方で、この大仏建立には藤原氏出身の光明子の立后に反対し、死に追いやられた長屋王の怨霊を鎮める目的があったとされています。それによって、皇統(天武朝)の継続を願ったというのです。

 舒明天皇の皇后であった皇極(斉明)天皇が、飛鳥朝の東北鬼門の地・信州に善光寺の創建を勅許したのは、怨霊を鎮めるというもっと具体的動機があったことが推測され、それは蘇我氏縁の尊仏を安置するという点から勘案すれば、蘇我氏一族の鎮魂にあったのではないか、あるいは、善光寺縁起という形でかくのごとく位置づけたのではないかと想像されるのです。また、善光寺縁起には、難波の堀江に捨てられた尊仏が聖徳太子の前に一端浮かび上がったともあります。善光寺の創建には、蘇我氏に亡ぼされた太子一族への鎮魂ということもあるでしょか。皇極帝は、それによって蘇我氏に奪われそうな皇統の継続を願ったのかもしれません。

 いずれにしろ、何から、あるいは何の怨霊から都を守ろうとしたのかは考えなければならないことだと思われます。

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裁判員制度(2)

 平成21年5月21日から、いよいよ裁判員制度が実施されるそうです。裁判員制度とは,国民が裁判員として刑事裁判に参加し、被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決める制度といわれています。「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」というのが、最高裁判所の裁判員に関するHPの謳い文句です。

 ところで、この裁判員制度の導入を全く別の観点から再検討してみたいと思います。私は仕事柄、よく裁判所に足を運ぶのですが、最近の裁判所は、本庁あるいはどこの支部でも頻繁に建築工事等が行われています。今後、一般市民が多く裁判所に訪れることが予定されていますから、その受け入れのため、増築や改築がなされているということです。

 それにともなって、あるいは、たまたまかが議論の分かれるところですが、不動産競売などに関する施設、機器も大いに拡充・充実してきています。たとえば、入札資料を複写する際、長野地裁本庁・各支部は、長らく弁護士会のコピー機を市民に便宜的に利用させるという形式を踏むところが多く、料金も高く、手間が掛かる等の問題がありました。ところが、最近では、裁判所がコピー機を備え置き、市民が自分で複写でき、料金もかなり廉価になってきています。二十年以上もほとんど変わらなかったシステムが、急に改変されてきています。

 裁判所など司法施設に突然、予算が付き始めたようです。裁判所の現場を歩いている人間からすると、裁判員制度の導入ということをきっかけに、裁判所に予算が流れ始めたと感じられるのです。制度の導入が、実は予算獲得のため千載一遇の機会になっていはいないかという危惧です。

 いかに予算を厳格に規制し、執行するかが問題とされる昨今、裁判員制度の導入に関しては、このような観点からの議論をほとんど見ないのは不思議というものです。もともと、従来から、裁判所と一般市民との間にはかなりの距離があり、市民(感覚)からの監視が行き届かないことからの帰結でもありますが。

 現在は休止されていますが、かって、日本でも陪審制度が行われた時代がありました。これと同様に、裁判員制度が法律上、事実上ともに休止となる可能性があることには注意が必要です。穿った見方かもしれませんが、裁判員制度の導入が、司法部が手に入れた数少ない予算獲得のための便益とならないことを願っています。

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風水と善光寺

 中国四川省の大地震の発生で、チベット問題が報道されることも極端に少なくなりましたが、先般の北京オリンピック聖火リレーでは、善光寺がリレー出発地点の申出を辞退し、善光寺が仏教寺院であることを改めて認識した次第です。

 ところで、善光寺土産の浮世絵や錦絵などには、「本堂建立ノ初ハ人皇三十六代皇極帝ノ勅願ナリ」と記されているのが普通です(皇極帝は実際には三十五代、斉明帝としては三十七代)。大化の改新、百済滅亡など国内外の情勢不安な飛鳥朝の時代ということになります。善光寺縁起では、百済に縁の深い尊仏が本尊(秘仏)とされていますから、百済と繋がりのある皇極帝の時代に勅願があって本堂が建立されたというのは、十分に納得できる事象です。

 しかしながら、こようような縁があるとしても、なぜ遠く離れた信州に善光寺が建立され、今日のような発展を遂げることとなるのでしょうか。このことについて、最近、おもしろい視点を発見しました。すなわち、風水の考え方が基礎にあるのではないかというもです。

 丑寅(北東)の方角は鬼門と言われ、そこから宇宙の気が中心に流れるというのが、風水の理論です。そして、中心に良い気を流し、悪い気を流さないために、丑寅の方角には、寺院などが置かれ、気の浄化が図られます。地図などを見ていただけばわかるとおり、実は善光寺は、都(飛鳥・奈良・京都)の北東方向に所在し、つまりは、都を守る風水上の装置として創建されたと考えられるのです。

 善光寺からさらに丑寅の方向には、奥州藤原氏の黄金の仏都、平泉があります。中尊寺金色堂は、奥州藤原氏が東北の地から仏教の力で平安京を守るという使命を果たすため建設されたのでしょう。

 おもしろいことに、善光寺と中尊寺はともに世界遺産への登録を目指しているのですが、仏教的遺産への欧米諸国の理解が深くなく、苦戦を強いられています。国際的にも高く評価される、都(飛鳥・奈良・京都)との繋がりのなかで、平和を祈る世界遺産として再構成するのも一考かと思うのですが、いかがでしょうか?

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